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スエズ運河改修プロジェクト

#2
岩盤の硬さ、達成意欲の高さ

スエズ運河改修工事調印式。日本の建設技術が本格的に海外進出の第一歩を踏み出した画期的な瞬間であった

「スエズ」渡洋航海中に、社内ではスエズ運河改修工事の担当者の人選が行われた。入札のためカイロに向かう3名の社員には、傍島湊(当時の取締役業務部長)他2名が選ばれた。新設されたスエズ出張所の初代所長には、当時東京支店の土木課長をつとめていた今中時雄が選ばれた。今中は鹿児島を振り出しに南九州支店扱いの工事のほとんどを手がけてきた技術者で、その経験と技術力が評価されての就任であった。

スエズ運河の改修工事入札は予定どおり、1961年6月5日に行われた。入札前に億を超える曳航費を負担して現地まで浚渫船を回航したことは異例であり、なんとしても一番札をとらなければならないという背水の布陣であった。この国際入札には、アメリカやヨーロッパの有力業者なども参加しており予想どおり、入札の内容は厳しいものであったが、五洋建設はその熾烈な競争に打ち勝ち、見事一番札で落札した。それは、日本の建設会社が本格的に海外進出の第一歩を踏みだした画期的な快挙であった。

次いで1961年8月8日に運河改修工事の調印式が行われた。工事の内容は浚渫工事・護岸工事・係留柱撤去及新設に分かれ、落札価格は当時の邦貨換算で約15億6000万円であった。五洋建設の落札価格は、これまでヨーロッパの有力業者に独占されていたエジプト側の関係者にもショックを与えた。地元の新聞は「日本のカミカゼ」と書いたが、その内容は日本の建設会社の進出を歓迎する好意的な論評であった。スエズ運河庁や住民たちも、大型新造船を曳航して入札前に先乗りした五洋建設の積極的な姿勢を高く評価した。
 スエズ出張所の初代所長に就任した今中は調印式に先立ち、7月10日にカイロに到着し、1週間ほどかけて作業現場を調査した結果、この工事は予想以上の難工事になると判断した。2か年は十分かかる工事量であり、1年3か月という工期は非常に厳しいものであった。また、受注した価格も今中の予想する概算をかなり下回るものであった。スエズ運河改修工事は他社が尻込みするほどの巨大工事であり、難工事になると予想されるが、同時に絶好のビジネスチャンスでもある。この大事業が成功すれば海外に知名度を高めることができる。ここで五洋建設の心意気を示して、なんとしても事業を成功させようと今中は決意を新たにした。この年のカイロは57〜58℃という酷暑が続いていたが、「スエズ」は8月下旬から作業を開始した。

五洋建設の前にはひとつ越えなければならない大きな障害があった。1961年6月5日の入札前に先発の調査団の技術者から本社に、スエズ運河にはどうやら堅固な岩盤がありそうだという報告が入っていた。岩盤が出たという情報が入ると、ただちに新鋭カッターの研究態勢に入るよう指示が出された。今中もこのいきさつについては承知していたので、岩盤の有無については慎重な調査を開始した。

土質調査

岩盤撤去作業

今中は以前にスエズ運河の創設者レセップスの記録を読み運河掘削の際に岩盤が出たと書かれていたことを記憶していた。その記憶に基づいて、運河に沿って堆積するレセップスが掘った土砂を綿密に調査し、硬い岩盤のあることを確信した。今中はただちに調査結果を本社に報告し、資料を送って岩盤の硬度の分析・調査と掘削に適したカッターを製作して輸送するよう依頼した。新規製作のカッターを船便で輸送するには3か月はかかる。すでに8月下旬から工事は着工していたが、カッター到着の遅れを見込んで柔らかい場所を探しあてては、そこから作業を開始した。すると、運河庁の役人が契約どおりの仕事をしないとクレームをつけた。今中は運河庁に出頭して貿易局長に調査記録をもとに作業手順を説明したが、なかなか聞き入れてくれないというトラブルがあった。しかし容易に納得しない頑固な貿易局長も、粘り強く説得する今中に、やがて折れて同意した。

3か月後には発注したカッターが到着した。しかし、その後の工事も難航が続いた。岩盤の掘削には手を焼き、カッターの改良には苦心を重ねた。炎暑のなかで日夜懸命に作業に取り組む五洋建設の社員たちの工事進捗状況は多くの人々の注目を集めた。岩盤に阻まれて五洋建設が悪戦苦闘しているという噂が日本に伝わると、同業他社のあいだでは「水野は大やけどするにちがいない」と取り沙汰された。

ゼネコンといわれた大企業ですら、海外工事で過去に大きな痛手を受けた苦い教訓がある。五洋建設も前車の轍を踏むことになろうというのが業界の支配的な見方であった。この工事は日本政府の肝煎りのプロジェクトでもあったため、政府の関係者も工事の成り行きを心配して見守っていたであろう。のちに政府機関のひとりとして再度エジプトを訪れた高碕達之助(元通産大臣)は工事中の現場に立ち寄り、その進捗状況を見て今中にこう言ったそうである。

護岸工事

「水野さんも、よくこんなことをやったものだなあ。私だったら、こんな思いきったことはようやらんわい。あの人は度胸があるというか一」今中の脳裏にはそのときの高碕の横顔が今でも鮮やかに残っているという。

スエズ運河庁側でも五洋建設がコストを割って契約をしたことはわかっていた。あるいは工事半ばでギブアップして撤退するのではないかとの危倶もいだいていた。予想外の硬い岩盤が出たということは撤退の口実にもなりうる。しかし、そのような大きな障壁を乗り越え高度の浚渫技術を駆使して粘り強く工事と取り組んで完成させ、しかも工事の出来映えもよく予想以上の緻密さであったことに驚くとともに感嘆した。

高性能のポンプを装備した「スエズ」はエンジンの音を響かせながら、運河浚渫の難工事に挑戦した。強靭な特殊カッターはきわめて硬い海底岩盤を次々に掘削していった。タービンポンプ式5000馬力の新造浚渫船「スエズ」による硬い岩盤の掘削工法は、世界の浚渫業界における一大技術革新であった。スエズ運河の第1期工事は2年がかりで完成した。国際海上交通の大動脈、スエズ運河の改修工事で発揮された五洋建設のすぐれた技術力は、運河当局はもとより内外の業界でも高く評価された。

現地従業員による作業

この実績から1964年5月に五洋建設は第2期改修工事を異例の随意契約(以下、随契)というかたちで特命で受注した。当時でも国際入札で随契は希有のことであった。このことは五洋建設が第1期工事を低価格で受注し、しかも完壁な工事を成し遂げたことに対するエジプト側の信頼の表れと受け取ることができる。1965年12月には、第2期工事に続いて第3期工事も特命受注で引き受けることになった。

この間、1963年9月には、スエズ運河庁ユーネス総裁一行が来日し広島の五洋建設本社を訪れて、永野俊雄(当時の社長)・水野哲太郎らと歓談した。また1964年7月20日の海の記念日に、スエズ運河改修工事の功績により五洋建設は運輸大臣から表彰を受けた。スエズ運河改修工事につづき、1964の3月にはシンガポールのジュロン造船所ドックおよび岸壁建設工事を受注、社員2名を派遣して施工にあたった。1年半足らずという工期のなかで、多くの労働者とのコミュニケーションに苦労しながら、毎日の工程管理に細心の注意を払って工事を進めた。この工事期間中に五洋建設は同国内でH.D.B.(住宅開発庁)のパイル試験工事、埋立工事用の土質調査工事に着手するなど、その後の一大マーケットとなる東南アジア地域への橋頭堡となった。



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