スエズ運河改修プロジェクト 五洋建設(旧、水野組)
スエズ運河改修プロジェクト3
スエズ運河 調印式
スエズ運河改修プロジェクト起工式(1976.02.04)
  この時期には当社の水野哲太郎は日本埋立浚渫協会の会長(昭和47年5月就任)でもあった。会長に就任したころには、業界は受注の減少や資金繰りの悪化が重なって沈滞ムードが広がっていた。こうした沈滞ムードを払拭するために、政・官・財界にも顔が広くしかも信頼できる人物として水野哲太郎が会長に推されたのであった。スエズ運河の拡張工事受注に際して水野哲太郎は、この工事の一部は日本の経済協力として円借款でまかなわれるという趣旨から、協会加盟の同業他社にも参加を呼びかけていた。スエズ運河の大型工事受注は業界活性化のための事業でもあった。記者発表後は、当社株だけでなく、埋立浚渫各社の株価は軒並み急上昇した。またスエズ運河の工事受注は海外にも大きな反響を呼び起こした。広く海外の新聞にも紹介されたため、とくに中近東・東南アジアなどから当社に対する工事の引き合いが急増し、水野哲太郎の呼びかけによって業界が協調して数々の海外工事に取り組むことになる。これにより当時、業界最大の不採算要因であった浚渫船の遊休化という問題が解消されて、埋立浚渫業界を覆っていた沈滞ムードが払拭され、ふたたび活況を取り戻したのである。

スエズ運河 サダト大統領訪問
ポンプ船「第3スエズ」を訪問するサダト大統領
 昭和50年(1975)6月5日、水野哲太郎と水野廉平はエジプト政府からの正式招待を受けてスエズ運河再開式典に参加した。式典は午前10時から開催された。イラン皇太子・サダト大統領・首相・国防大臣・マシュール運河庁総裁らが列席した。式典の際、サダト大統領はとくに日本人記者団に対し、「日本国民と政府が再開に貢献してくれたことを感謝する」と異例の謝意を述べた。サダト大統領のこの発言について、水野哲太郎は次のような感想を記している。
 「大統領自らが特に日本に対してこのような感謝の意を表明したということは、ただならぬことである。エジプトのみならず、世界的にも大きな意義のある運河再開に日本が協力してくれたことに対して感謝するといった過去のことにとどまらず、将来にも協力を要請したいといった意志表示だと私は受け取った」同年8月1目には翌51年(1976)1月着工に向けてカイロ市にエジプト支店を開設し、50年(1975)10月から11月にかけて、「駿河」「スエズ」「第2スエズ」が相次いでエジプトヘ向けて出航し、社員も続々現地入りして約90名のスタッフが活動を開始した。

スエズ運河 スエズ事務所
当時のスエズ事務所
 昭和51年(1976)2月4日には、スエズ市のテウフック港でマシュール運河庁総裁と水野哲太郎が出席して起工式が挙行され、先発の「駿河」と「スエズ」が当日から作業を始めた。工事はいちばん硬い岩盤のあるC工区から集中的に行った。3月21日には、「紅昌」と「日本」が当社では初めてリフトバージに積みこまれて広島を出発してエジプトヘ回航され、3月末には8000馬力浚渫船「第3スエズ」が竣工し、スエズ運河工事に参加した。

 昭和51年(1976)11月には、A1・A2・B・C工区に続き第2弾として、E・G工区を受注した。この工事は同年9月1日にアメリカ・イギリス・オランダなど各国の業者が参加して国際入札が行われたもので、E・F・Gの3工区からなっていた。当初、当社はこの3工区のうち、すでに施工中であったA2工区に隣接しB工区の続きであるG工区のみに応札したが、アメリカ企業に次いで2番札となっていた。しかし、スエズ運河庁は「この会社はE・F・Gの3工区とも1番札となっているが、全工区を施工する力がなく、技術的にも信頼できない」として、入札後ただちに2番札の当社にネゴの申し入れがあり、さらに入札に参加しなかったE工区についてもぜひ施工してもらいたいと強い希望があったので、2工区を受注することになったものである。請負額はE区(6.55km)・G区(13.10km)合計で330億円、工期は54年(1979)12月末までの38か月であった。

 昭和52年(1977)6月5日、サダト大統領はスエズ運河改修工事に就役中の新造浚渫船「第3スエズ」を訪問し、船上で水野哲太郎・水野廉平はじめ関係者と懇談した。同年12月には、さらにスエズ運河拡張工事J工区(10.50km)を受注した。請負額は49億円、工期は昭和55年(1980)4月であった。これにより13工区のうち7工区を当社が受注することになった。53年(1978)3月30日にはE・G・J工区の起工式が挙行された。
昭和52年(1977)11月には、当社のほか三井不動産建設株式会杜と若築建設株式会社の協力を得て、12隻の浚渫船がエジプトで稼働していた。

 
スエズ運河 回航
スエズ運河に回航される「日本」「紅昌」
「駿河」「第3スエズ」「第2スエズ」「泰生」「第1スエズ」「浅間」「紅昌」「日本」、「第18三栄丸」、「若築丸」「第3大平丸」「第1菱和丸」の12隻で総馬6万8400馬力であった。浚渫船への燃料補給を円滑化するため若築建設が500kl積載可能のタンカーを購入して現地へ送っていたが、現地での配送体制が立ち後れていたことから、昭和55年(1980)3月、独自に当社でも専用のオイルタンカー「第1ナイル」を建造して、4月22日、エジプトへ向け出航した。
当社が13工区のうち7工区を担当したスエズ運河第1期拡幅増深工事は、5か年の歳月と総工費12億7000万ドルをかけて昭和55年(1980)8月31日に竣工し、12月16日、現地ポートサイドで開通式が開催された。この工事の完成によって、15万トン級の船が航行できるようになった。また、この工事で浚渫船の月間運転時間700時間および月間浚渫土量110万m³の新記録が生まれた。

スエズ運河 勲章授与
スエズ運河勲章スエズ運河拡幅増深工事の功績をたたえられ、サダト大統領より勲章を授与される水野哲太郎
 水野哲太郎はエジプト政府から開通式に招待され、スエズ運河改修の最大の功労者として、“Republican Emblem Grade No.1”の勲章を授与された。式典は午前10時半から行われ、日本政府から伊東正義外務大臣、ほかに日本アラブ協会中谷武世会長ら要人多数が出席した。演壇に立ったサダト大統領はこの第1期工事について、「1869年のレセップスによる初のスエズ運河開通、1975年の運河再開に次ぐ第3の快挙である」と述べ、とくに日本政府と日本企業の協力に負うことがきわめて大きかったと付け加えた。
 昭和55年(1980)11月3日、水野哲太郎は港湾建設諸事業の功労者として勲二等瑞宝章を受章し、11月5日、夫人同伴で皇居松の間において総理大臣から授与され、次いで豊明殿で昭和天皇の拝謁を受けた。また昭和56年(1981)5月29日には、当社はスエズ運河改修工事の功績により、国際建設技術協会から海外功労賞を受賞した。(了、文中敬称略)

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