五洋建設がタｰビン式新鋭大型浚渫船｢スエズ｣を建造し工事の落札を待たずに現地に回航するという背水の布陣で、初めてスエズ運河改修工事に参加したのは、昭和36年(1961)であった。次いで第2期工事を随契で受注し、さらに第3期工事も水野組が引き受けることになった。第1･2･3期改修工事の工期と受注金額は次のとおりで､受注金額の合計は36億800万円であった。
昭和42年6月5日にスエズ運河改修工事第4期工事の国際入札がカイロで行われることになった水野哲太郎は､内林達一専務､初代スエズ出張所長の今中時雄(のちに副社長)ほか技術者など数名を同伴してカイロヘ向かった｡現地では39年(1964)10月からスエズ出張所の2代目所長として赴任していた吉原正(のちに相談役)が水野哲太郎一行を出迎えた。 入札当日の朝､一行は3台の車に分乗して､カイロのヒルトンホテルから運河庁のあるイスマイリアヘ向かった｡距離にして約120km、約2時間の行程であった。前日までの3～4日間､ホテルの一室に缶詰状態で140億円を超える入札価格の調整を行っていた一行にとっては､早朝の柔らかな日射しが爽快であった｡先頭車には水野哲太郎と内林･吉原が乗り､今中は後続車に乗った｡｢今日はいい天気だ､幸先いいね」と水野哲太郎が吉原に声をかけた。 車がイスマイリアにあと20分ほどの距離に迫ったころ､運転手が不意にスピｰドを落とした｡吉原が｢どうしたのか?｣と聞いたが､運転手は答えず､そのままゆっくりとしたスピｰドで走った｡やがてタイヤが地表から持ちあがるような衝撃が続いた｡地震ではない。地面がなにかの震動で大きく揺れ、タイヤがバウンドしていた。行く手はるかに黒煙が上がっているのが見えた。運転手は車を止めた｡まもなく､頭上を戦闘機が高速で飛んだ。｢だれかが『イスラエルのマークがついている』と叫んだ｡飛来したジェット戦闘機は､前方の黒煙の上がるあたりに急降下して､さらに攻撃を加えているらしい。四人は車を出て､周囲の様子をうかがった。後続の二台の車は､どこに停車したのか､影もみえない。････前方から政府の役人らしい人の乗ったジープがやってきた｡手をあげて停め､『イスマイリアヘ行きたいんだが』というと､『ダメ､ダメ』と手を振って行ってしまった｡“戦争が始まったのだ”と､そのときだれもが感じた」 車に戻ってラジオのスイッチを入れると、エジプトのアナウンサｰは､イスラエルと交戦状態に入った､と興奮した声で告げていた｡やがてあとから今中らの車が追いついて､入札をどうするか､ということになった。今カイロに戻っても､市街地はどうなっているか。目的地のイスマイリアも激戦地になっているかもしれない｡ このとき､｢行っても爆弾､引き返しても爆弾なら､入札に行こう！」と､水野哲太郎が決然と言った。 このひと言で衆議一決した。途中の道のゲｰトで､再三警備の兵隊に押しとどめられたが、｢スエズ運河庁総裁から呼ばれているペンタオｰシャンだ｣と粘って通してもらった｡こうして運河庁に到着したのだが､入札期限ギリギリだというのに肝心の担当官が見当たらない｡一行が焦る気持ちをもてあましていると､連絡を受けた担当官がようやく姿を現した｡自らが避難しているような大変なときにちゃんとやってきた日本人の勇敢さに､役人は驚嘆したようだ｡他国の業者は事前に戦争の情報を入手していて､前日に大使館を通じて入札書を運河庁に渡していたらしい｡入札会場に入ったのは当社だけだった｡先方は当社の熱意に感謝して手続きを完了させてくれた｡
運河庁に到着して入札会場で役人に会ったときの情景を､後日今中は次のように語っている｡「向こうの人が喜んだのなんの｡オランダやアメリカそのほか､ぜんぶおそれをなしたのに､日本人だけは敵中突破という感じで､約束通りにもってきたんですから｡『イスラエルとの戦争なんか一日で終わる｡むろんわが軍の大勝利だ｡ありがとう』なんていって受け取ってくれました｡戦争のほうは逆に負け戦さでしたけどね｡･････いま思えば､水野哲太郎のあのひと言が､天下分け目の決断になったんです｡あれで会社はぐーんと大きく伸びましたからね」入札は実施され当社は落札したのだが、戦争の勃発でスエズ運河は閉鎖され､工事は宙に浮いて､仕事がなくなってしまった｡当社から派遣された社員は一部を除きやむをえず帰国の途についた。 当社がスエズ運河の第4期改修工事を落札したのは昭和42年（1967）6月であったが､落札はしたものの戦争の勃発でスエズ連河は閉鎖され､工事は未契約のままであった。しかし長い空白の期間があったにもかかわらず､ネゴシエｰションの権利は生きつづけていた。7年余の歳月が経過した49年(1974)10月に､当社は506億円という超大型のスエズ運河拡幅増深工事を受注することになったのである。
｢拡張計画は､現在七万トン級の船舶しか航行できないスエズ運河を､第一期工事(三年間)で十五万トン級､第二期工事（同）で二十五万トン級の船舶が航行できるようにするもの。五洋建設が受注したのは､第一期工事のA1工区（長さ十七キロ）、A2工区（同七・三キロ）、B工区（同二十二・九キロ)、C工区(同十六・〇五キロ)の計六十三・二五キロ（運河総延長百六十一・○五キロ)の区間。現現在の水深十五メートルを十九～十九・五メートルまで下げ、幅も九十メートルを百六十メートルに広げる。このために約一億一千万立方メートルの土砂をしゅんせつするという。／工事には日本人約三百人、現地人約千人の技術者､労務者が参加する。工事が大規模なことと、業界が受注減に苦しんでいることから､五洋建設は業界大手数社に工事参加を求めるといっている。／工期は本契約後三年だが､同社は直ちに準備を始め､五十年七月から本工事に着手する」
記者発表の数日前から当社の株価は連日高騰を続けていた｡10月9日に183円であった株価は､発表後の17日には292円となり､わずか1週間余りの間に100円以上の上げ幅を記録した｡当時株式相場は低迷状態にあったので､当社株の異常ともいえる値上がりは兜町はもとより各界から注目を集めた。
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