スエズ運河改修プロジェクト 五洋建設(旧、水野組)
スエズ運河改修プロジェクト1
 昭和33年(1958)に日本政府から浚渫業界に、エジプト政府がスエズ運河の改修計画を立案しているので調査団を派遣するようにとの要請があった。この要請は、当時の高碕達之助通産大臣を団長とする一行がアスワン・ハイ・ダム調査のため、エジプトを訪問したことに始まる。そのおりにエジプト側から、スエズ運河改修の国際入札に日本から参加してもらいたいという要望があった。政府の要請はこれを受けたものであった。五洋建設(旧 水野組、以下 五洋建設)では他社との合同によるスエズ運河改修計画調査団にメンバーを派遣するとともに、エジプトとアラブ連合共和国に関する資料の調査を始めた。
第4代社長水野哲太郎
第4代社長水野哲太郎の大胆な決断は、後に五洋建設のターニングポイントとなった。

 地中海と紅海に挟まれたスエズ地峡は、アフリカ大陸がアジア大陸につながる地点で、砂漠と湖沼からなる平地である。この地形の利点に着目してすでに紀元前1300年ごろに地中海と紅海とを連絡する小規模な運河があったが、その後は砂漠の砂に埋没して忘れられていたといわれる。近代に入りナポレオンが東方への進出を夢見て大規模運河を計画し、フランス人レセップスがエジプト大守モハメット・サイドの協力を得て、1859年着工し10年後の1869年に開通に成功した。スエズ運河は海面と同一水位の水平航行式運河で水路底幅員22m、水面幅員60〜100m、全長162km、水深7.9mであった。工事は困難をきわめたが、技術的な困難よりも、むしろ炎天下の過酷な自然との戦いで12万人のエジプト人労働者が倒れたといわれている。

 アジアとアフリカの境界にあるスエズ地峡を貫通して、インド洋と地中海を結ぶ国際水路、スエズ運河の開通によってロンドン−シンガポール間航路は、ケープタウンまわりの2万4500kmから1万5027kmに、ロンドン−シンガポール間航路は2万1400kmから1万1472kmに短縮されることになった。当初のスエズ運河会社の株式所有はエジプト国大守であったがその後、その所有をめぐって長い間フランス・イギリス・エジプトの3国間で紛争が続いた。スエズ運河は地中海と紅海を経てインド洋を結ぶ要衝であり、その通行料による国家収入はエジプトにとってドル箱といえる存在であった。イギリスとフランスがその利権に固執した理由はそこにある。1875年にはイギリスが運河会社の株の44%を取得し、1882年エジプトに最初の民族運動の反乱が起こったとき、イギリスはその鎮圧を口実に運河を基地化して占領し、1956年までスエズ運河を支配した。その間エジプトは民族解放・独立達成のため、いくたびもイギリスと戦ったが1952年7月、ナセルの革命が成功すると運河地帯からイギリス軍を撤退させるべく、1954年10月新たにイギリス・エジプト条約を結んだ。これによって1956年6月イギリスは撤退し、ナセル政権がスエズ運河の国有化を断行してアラブ連合共和国のスエズ運河庁が運河を管理するようになった。

浚渫船「スエズ」の進水式
浚渫船「スエズ」の進水式
 エジプト政府のスエズ運河改修計画は「ナセル計画」と称され、1960年を初年度とする工期10か年に及ぶ大規模な運河改修計画であった。この計画は運河全線162kmの複線化と、最大級のタンカーが通行できるように水深を深くしようというものであった。これまでの水深は約10mであったが、これを11.5mか13.2m、やがては約14.5mにまで深めるという壮大な計画で、掘削に要する資金は世界銀行から融資を受けるということであった。カイロの派遣員と連絡をとりながら、五洋建設のスエズ運河進出の構想は、徐々に形成させていった。スエズ運河の浚渫計画はこれまでにない巨大な工事であり、未知なるものへの挑戦ともいうべき冒険であったが、五洋建設の長年にわたり蓄積された技術力を試すチャンスでもあった。第1回目の国際入札は、日本側の応札は時間がとれず見送りとなったが、五洋建設では第2回の入札に備えて具体的な準備をすすめた。


 スエズ運河改修工事の第2回目の国際入札は、昭和36年(1961)6月5日に行われることになった。
 五洋建設にも政府から入札の打診があった。前回とは異なり決定まで十分な日数があったが結論を出すまでには解決しなければならない多くの課題が残されていた。

 まず、このような巨大工事には「安芸」以上の大型ポンプ船が必要となるが、現石川島播磨重工業株式会社のおよその見積もりではタービンポンプ式5000馬力では、建造費が軽く10億円を越えるだろうという回答であった。現地に回航する曳航費も億単位の費用がかかると見込まねばならない。

 また、国際入札も未経験であった。ヨーロッパ諸国の業者が日本からの応札を知れば、予想外の低価格で応札してくることも考えられる。もし落札できなかった場合には新造船のポートサイドまでの曳航費はもとより、かけた費用は回収不能となる。その損失は大きく経営の破綻をきたしかねない。

 水野哲太郎は熟慮の末、リスクを冒してこの巨大工事に挑戦する腹を決め、業務課の担当者に見積書の作成作業を指示するとともに、5000馬力の超大型新造船の建造準備に入った。

 見積書は慎重な配慮をもって作成されたが、水野哲太郎はこれにさらに手を加えた。それは業務課がかなり低めに抑えた見積もりよりもさらに低い金額であった。これには水野副社長の、船はつくったものの入札に負けたのではどうにもならない、何がなんスエズ運河mapでも一番札を確保しようという並々ならぬ決意がこめられていた。この決意に至る心境を、のちに水野哲太郎は次のように語っている。

 「国際入札に負ければ、またスゴスゴと船を日本まで引っ張って帰らなければならない。そのみじめさもさることながら、失敗したら会社をつぶすことになるかもしれないと思った。しかし、考えぬいたすえに、失敗してゼロになったら、またゼロからスタートすればいいさと考え始めた」(「中国新聞」昭和49年10月17日、「この人」の欄)

 スエズ運河改修工事に就役する大型船は現石川島播磨重工業(株)に発注して建造に着手し、昭和36年(1961)1月31日、タービンポンプ式5000馬力の浚渫船の進水式が行われた。この新造船はスエズ運河改修工事への参加を期して建造されたので、これを祈念して「スエズ」と命名した。進水式には小坂善太郎外務大臣、小暮武太夫運輸大臣の各代理ほか関係者が多数出席し、「スエズ」の壮途を祝福した。

「スエズ」号の諸元
船体長58.95m 幅16.00m 深4.30m
主機最大出力5,000PS
浚渫能力1,100m³/h    

 「スエズ」は進水後、艤装、回航のための船体密閉作業、さらに通関手続き、曳航船の配備その他の準備を終え、昭和36年(1961)3月25日、東京海事の新鋭外航貨物船「きく丸」に曳航されてポートサイドに向けて出航した。渡航には2か月を要したが5月22日に無事ポートサイドに到着し、いつでも作業に入れる態勢を整えた。

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